所々新聞(とことこしんぶん)自営ライターによるトコトコ三昧な日々を記しています。 since 2006/1/1 by.ikuta yuri

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山形いづめこ旅路6 〜最上川で戦後61年を想う〜 20:18
山形で最上川の渓流下りを体験しました。写真に写るのは、祖父、祖母、父、母、そして船頭さん。この日は8月14日。戦後61年目、終戦記念日の前日です。

最上川の生田ご一行様

祖母は81歳。昭和20年11月に朝鮮、今の韓国ソウル・京城から引揚げ、山口県光市へ。昭和30年、広島へ。

祖父は83歳。昭和19年6月、広島にて赤紙を受け取る。54名の小隊として9月、ビルマ戦線に送られる直前、除隊になった3名のうちの1人。理由は、当時、軍兵器を製造していた三菱重工に勤めていたから。
除隊になり途方に暮れた祖父は、3名と一緒に金比羅山にお参り。その道中、祖父たちが乗った電車と、ビルマに向かう51名が電車ですれ違う。互いに気がつき、敬礼し合う。さっきまで一緒に訓練を受けた仲間たちは、軍服に銃剣だけをぶら下げていた。銃は、ない。
ビルマ戦に行けば間違いなく戦死していただろうが、除隊になったがために生き延びる。ところが、ビルマに行かなかったために今度は昭和20年8月6日、ヒロシマで被爆。爆心地から3km圏内の己斐にいたが、山の陰になっていたため、第一撃の人間を溶かした閃光と、建物を吹き飛ばした爆風を免れる。
終戦の8月15日までヒロシマ市内に滞在。疎開していた三菱重工工場には、被爆者たちが続々と避難してきて、そして、次々と死んだ。被爆者たちの飛び出した腸は「天女の羽衣のようだった」と振り返る。
被爆後3日間続いた火災が終わると、今度は死体を焼く炎でヒロシマが明るく染まり、その色と匂いは、明らかに火災とは違うものだった。死体を焼いたのは、隣の己斐小学校の校庭。
雨を受け水を飲んだ祖父だったが、三菱重工の工場にいたため、海軍の食料が豊富だった。栄養失調になることがなかったので、毒を吸っても原爆症にならず生き延びたのではなかろうか、と祖父の談。
8月15日、民家のラジオで昭和天皇の玉音放送を聞く。
8月16日、午前3時からリュックを背負い歩いて宇品港まで。午前7時10分発の今治行き船に乗るため。当時は電車も動かなかったので、歩くしかなかったとのこと。
ビルマ、ヒロシマと、2度も死を免れた経験を持つ祖父だが、今度は昭和49年8月30日。すっかり平和になった日本で死にかけた。
その日、ソ連出張から帰国した祖父は、日本についた途端あまりの暑さにまいり、本当はすぐに三菱重工本社に行かねばならないところを、アイスクリームでも食べよう、とサボリ、1本電車を遅らせたことが幸い。東京駅に着き、当時の旧丸ビルに入り、1階を通り三菱重工本社に行こうとしたら、床は血まみれ、道路はガラスだらけ。誰もいないフロアは不気味に静かだったとか。いわゆる、三菱重工爆破事件である。

3度も死にかけた祖父。今も、まだまだ元気。
だから、機嫌良く最上川を下っています。
| 遍路記 | - | trackbacks(2) | posted by 生田ユリ
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